1667年にルイ15世の愛妾となった モンテスパン侯爵夫人は、前年の秋に君主と出会った。アンヌ・ドートリッシュのおかげでヴェルサイユ宮殿入りを果たした愛妾は、宮廷人たちから恐れられ、宮廷の毎日の生活に大きな影響力を発揮した。芸術を愛し、国王から庇護された夫人は、王に最も近い部屋に住んだが、やがて1691年マントノン夫人により排除された。
王の寵愛を巡る争いでは、新たな寵姫が現寵姫からその座を奪うのが常。モンテスパン侯爵夫人、本名フランソワーズ・アテナイス・ド・ロシュシュアール・ド・モルトゥマールは、1666年にルイ14世に出会い、その魅力でルイ14世を虜にした。1674年、彼女はド・ラ・ヴァリエール嬢を押しのけてルイ14世の公妾となった。王は自分の居室近くに新しい公妾を住まわせ、自分専用の入口を設置させた。二人は七人の子供をもうけ、その教育は将来マントノン夫人と呼ばれることになるスカロン未亡人に任された。そのうち六人が1673年に国王によって王の正当な子供として認められている。
その後モンテスパン侯爵夫人は、宮廷で絶大な影響力を持つようになる。夫人の住居は「宮廷、快楽、富、そして大臣や将軍たちの希望と恐怖の中心となった」とサン=シモンが回想録の中で記している。高級品と芸術に卓越したセンスを発揮した侯爵夫人は、壁を絵画で飾り彼女の居室を王宮の「エスプリの中心」とした。彼女はまた、モリエール、ラ・フォンテーヌ、詩人フィリップ・キノーなど、芸術家たちの擁護にも熱心であった。
しかしながら、長年にわたって王の寵愛を受けた後、モンテスパン侯爵夫人もまたライバルに対抗できなくなっていった。ルイ14世は次第に王の居室や宮廷から彼女を遠ざけるようになった。一方賢いマントノン夫人は、この失寵を利用して権力に影響を及ぼすようになる。毒薬事件に絡んだ大規模な裁判によって信用を失い王からも見放されたモンテスパン侯爵夫人は、1691年にパリのサン=ジョゼフ修道院に引きこもり、1707年にこの世を去るのだった。