ポンパドゥール夫人はルイ15世の愛妾、友人そして助言者として国王が1764年に亡くなるまで側に付き添った。.縁故により宮廷に出入りするようになった彼女は、やがて国王の目に留まり、愛妾の地位を獲得した。 ルイ15世は彼女のために安らぎの場として小トリアノンを建設させた。
後にポンパドゥール侯爵夫人となるジャンヌ=アントワネット・ルノルマン・デトワル(旧姓ポワソン)は、1745年にヴェルサイユでルイ15世と出会った。ルイ=フェルディナン王太子の結婚式の大仮面舞踏会でのことであった。王は彼女に夢中になり、その同じ年、ヴェルサイユ宮殿の自分の居室の上の階に彼女を住まわせた。秘密の階段により、ルイ15世は人目を引かずに彼女の居室に赴くことができた。7月、王にポンパドゥールの領地を与えられた彼女はポンパドゥール侯爵夫人となり、1745年9月に宮廷で公式に人々に紹介された。しかし、貴族の出ではなく、銀行家の娘というブルジョワ階級出身であった彼女は、間もなく貴族たちの間で批判の対象となった。しかし彼女は、自分の弟であるマリニー侯爵を王用建築物監督官に任命させることに成功した。
1750年代になると、彼女は王の公妾ではなくなったものの、王への強い影響力はそのまま保持した。中央棟の1階に居室を移した彼女は、若い娘たちを宮廷に呼びよせ王に紹介し、また、新しい建築物を監督し、特に芸術愛好家としての役割を果たした。1756年にはセーブル焼き磁器工場を作るよう働きかけ、ルイ15世広場(現コンコルド広場)の整備を奨励し、弟のマリニー侯爵の支援を得て、王に小トリアノンの建設を承諾させた。トリュフを使ったスープ、チョコレート、シャンパンなどの食べ物を好んだポンパドゥール夫人は、精神的な糧も同様に好んだ人物であり、1751年にはディドロとダランベールの編纂した「百科全書」の最初の2巻の出版を促した。
その2年後の1752年、ルイ15世は彼女のパリでの滞在のために、エヴルー邸(現エリゼ宮)を買い与えた。その後、ポンパドゥール夫人は、彼女のムードンにあるベルヴュー城とパリとの間を行き来して過ごすようになった。しかし、1764年、42歳のポンパドゥール夫人はヴェルサイユにて、肺充血により亡くなった。王はこの「20年来の友人」の死を悼んだ。