若きルイ16世に抜擢されたチュルゴーは、ルイ15世治世末期の困難な時代に嫌気を覚えていたフランスに新しい息吹を吹き込んだ。彼の野心は、特権と税金に代わって、万人にとって富の創造の源である自由主義経済により、国家財政を再建することであった。政策の中には、革命期の改革に影響を及ぼしたものもある。
1727年にパリで市長の息子として生まれたアンヌ=ロベール=ジャック・チュルゴーは、1749年にソルボンヌの修道院長になった。1751年に聖職に就くことをやめてパリ高等法院に入り、様々な職務を経た後、1753年に請願審議官の地位を買い取った。商業監督官であり自由経済を信奉するヴァンサン・ド・グールネーと共に働いた彼は、グールネーの地方遊説に同伴した。チュルゴーは、18世紀に生まれた経済思想である重農主義の信奉者たちと近しくしていた。
彼は「百科全書」にも寄稿し、1760年にはヴォルテールとの親交を結んだ。1761年にリモージュの地方長官に任命されると、自らの自由な思想に基づき、土地台帳の作成、労働賦役の廃止、貧困撲滅運動、穀物輸送のための道路と運河の建設、工場の設置といった改革を実施した。
国王になったばかりのルイ16世は、1774年にチュルゴーを財務総監に抜擢した。チュルゴーはフランスが必要としている構造的な改革を推進するための方針を記した有名な8月24日の手紙を書いた。すなわち「破産なく、増税なく、募債なく」がそのモットーであった。支出削減を掲げたこの政策により、1775年までには赤字を食い止め財政を立て直すことができた。持論である自由主義の原則に忠実に、チュルゴーは穀物の取引の自由化と価格規制の撤廃を実現した。しかし、穀物が不作だったためにパンの値段が高騰。地方やパリにおいて暴動が発生した。1776年には事業の自由化と自由競争を制定することで、強力な同業組合と対抗した。チュルゴーはまた、賦役に代わって地主に対する地租を徴収した。こうした政策は民衆からも貴族からも同様に不評を買い、彼の立場を危ういものにした。王妃と大臣モールパに押し出される形で、チュルゴーは1776年5月12日に辞任。晩年は経済学、文学、物理学に身を捧げた。