ルイ16世の治世では、フランス革命の勃発が大きな出来事となった。1770年代以降は、ヴェルサイユの宮廷はひとつの時代の最後を飾っていたのである。1774年に王位を継いだルイ16世の王国は大きな困難を抱えていた。1789年、財政困難を打破するために、国王は宮殿に特別国民議会を召集した。同年、人民の圧力のもとに、マリー=アントワネットと共にヴェルサイユを後にしたが、その後1793年にギロチンで斬首刑にされた。
ルイ15世の孫であり、1765年に王太子となったルイ16世は、1774年に20歳で国王となった。傳育官であったヴォギュヨン公爵は、王太子に万遍ない教育を施したが、国王としての権力の行使に関しては、あまり具体的な指導はしなかった。そもそもルイ16世は、王家の3番目の息子であり、兄が二人とも死んだため王太子となったのであった。ルイ16世は、歴史、地理、科学、法律、ラテン語、ギリシャ語、そして現用言語を学んだ。彼の政治思想は、国家は国王とは異なるとするフェヌロンと啓蒙思想による影響を受けていた。これはフランス君主制の伝統的な考えとは相反するものであった。王位に就いたルイ16世は、祖父ルイ15世下の政治顧問たちを保持しなかった。財政困難な状況下、チュルゴー、ネッケル、カロンヌらが次々と財務長官に登用されたが、免税特権を廃止する必要性に関して、王から全面的な支持を得ることはできなかった。改革は行き詰まり、王は1789年にヴェルサイユに全国三部会を招集せざるを得なくなった。この臨時の三部会には、貴族、聖職者、第三身分という三つの身分を代表する1200人の議員が集まった。フランス革命の足音はすぐそこまで迫っていた。
王家
1770年、王太子ルイ、後のルイ16世は、オーストリア皇女、マリー=アントワネット・ド・ロレーヌと結婚。この婚姻により、4人の子供が生まれた。フランス革命が勃発した時点で生存していたのは、1778年に生まれた長女マダム・ロワイヤルと、1785年に生まれた王太子のみであった。宮廷のルイ16世の元には、二人の弟アルトワ伯爵とプロヴァンス伯爵およびそれぞれの夫人たち、そして妹のエリザベット王女も暮らしていた。