生き生きとして快活な性格のヨランド・ド・ポリニャック公爵夫人は、マリー=アントワネットを魅了し、彼女の深い親愛を勝ち得た。公爵夫人は、王妃に喜びとお祭りの世界を発見させたが、王妃に対する自分の影響力を行使して自分自身あるいは身内のための恩恵を獲得することも少なくなかった。1782年には公爵夫人という称号を得て、王の子供たちの家庭教師に任命されましたが、そのために1789年の革命時には宮廷を去らざるを得なかった。
ヨランド・ド・ポラストロンがヴェルサイユ宮殿で王妃に初めて会ったのは1775年だった。借金を抱えた貴族、ジュール・ド・ポリニャック伯爵と結婚していた彼女は、その苦しい経済状態から抜け出そうと並々ならぬ野心を抱いていた。そしてその魅力的な容姿と陽気なウィットを巧妙に操り、王妃の取り巻きの中に加わったのだった。王妃の公式肖像画家、ヴィジェ=ルブラン夫人作の絵画には、空気のように軽やかな生地のガリア服を着て花で飾った帽子をかぶった夫人の姿が描かれている。王妃は夫人と共に時間を過ごすことによって、簡素で気ままな生活の快楽を発見し、宮廷の礼儀作法をなおざりにしていった。そして堅苦しい宮廷生活を捨て、自身の小トリアノン宮殿に引きこもったのだった。
ポリニャック夫人は、欲しがっていた特権を手にするまで、そう時間はかからなかった。1782年、夫人には公爵夫人という称号が与えられ、王の子たちの家庭教師に任命された。そのため彼女は、「ヴェルサイユで最も美しい住居」と言われた彼女の居室を離れ、家庭教師たちが住む居室に移り住んだ。そして彼女の意向でその新居の大規模な修復工事が行われた。夫人の家族と友人たちも彼女の地位から恩恵を被ったのだった。
しかし、1789年にフランス革命が勃発すると、長年にわたってパリ市民の激しい反感を買っていた夫人は亡命せざるを得なくなった。心が引き裂かれるような思いで王妃の元を離れた夫人は、スイス、イタリア、そしてオーストリアから王妃と連絡を取り続けた。マリー=アントワネットも同様に夫人と離れ離れになったことを嘆き、「さようなら、親愛なる私の友達。この言葉はとても残酷なもの。でも口にしなければならないのです。もうあなたにキスをする力しか残されていないのです」と夫人への手紙に綴っている。ポリニャック公爵夫人は1793年、王妃を見捨てたという後悔の念に蝕まれながらこの世を去った。夫人の墓碑銘にある「苦悩による死」の文字が最後の敬意の印となっている。