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マリー=アントワネット

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周囲の賛同を得られなかった王妃

母親の影響を受け、王妃は不器用ながら政治的な役割を果たそうと試みますが、宮廷ではあまり喜ばれませんでした。アデライド王女は、軽蔑をこめて「オーストリア女」というあだ名をつけますが、王妃は死ぬまでこう呼ばれることとなりました。王妃は風刺文、中傷文、風刺画の格好の的となりました。特に、1785年に「首飾り事件」が起こると、王妃は恐らく被害者でしかなかったにも関わらず、それが中傷のきっかけとして盛んに用いられました。トリアノンの自分の小さな劇場で、王妃は「フィガロの結婚」をあえて上演しました。ボーマルシェの書いたこの作品は、アンシャン・レジーム社会を痛烈に批判する内容となっており、王が上演を禁止したものでした。王妃と宮廷との仲は完全に決裂してしまいました。

フランス革命が勃発すると、逃亡を図るべきか国民との和解に努めるべきか逡巡する彼女のあいまいな態度は、その悲劇的な最期を加速させました。1792年8月10日以降タンプル塔に幽閉されていたマリー=アントワネットは、1793年1月21日にルイ16世が処刑されるとコンシェルジュリーに移されました。革命裁判を気丈に耐え抜いた彼女は、1793年10月16日、現在のコンコルド広場において処刑されました。その遺骸は1815年にサン=ドニ教会にある王家の地下納骨堂に収められました。