1792年、セーヌ・エ・オワーズ県美術中央保管所になったヴェルサイユ宮殿に、ヴェルサイユ中央美術館が誕生し、それは後のフランス派のルーヴル特別美術館の前身となるものでした。
1792年10月19日、セーヌ=エ=オワーズ県芸術委員会が発足。国家のために、同県の国家財産(旧王宮、宗教建築物、個人邸宅)に含まれる美術および科学関連のあらゆる作品を収集することが目的で、同委員会は、ヴェルサイユ宮殿を主な保管場所とし、1793年に開館したルーブル美術館の例に倣って美術館の創設が検討された。
美術館の創設にはヴェルサイユ宮殿の存続が懸かっていた。ヴェルサイユの人々は、ヴェルサイユ領地の名声を築いた作品の数々が、ルーブル美術館の利益のためだけに奪われてしまうのを嘆いた。そこで請願書を作成し、国民公会に第二の美術館の創立を要求した。「ルーブルのみに共和国の傑作が集まるべきではない」と。パリとヴェルサイユの対抗意識とその後の歩み寄りは、ヴェルサイユ最初の美術館を幸福にも不幸にもしたのだった。
1794年5月、国民公会が国民のためにヴェルサイユ宮殿の維持を決定すると、美術館創設計画がスタートし、作品が過剰になるのを防ぐため、王宮の家具の売却が企画された。1795年、ユーグ・ラギャルドが最初の学芸員に任命されると、彼は3ヶ月間、未来の美術館のさまざまなセクションを準備。南翼には、ルーブル美術館と同じように版画セクションとともに図書館が設置され、北翼には科学セクションが設けられた。また、大居室内の絵画の配置を行い、庭園の彫像とマルリーの彫像を革命運動による芸術品の破壊から保護するため、これらを広間に移させた。ついに1796年4月18日、ヴェルサイユ中央美術館がその扉を開き、10日間のうち2日公開されることになった。
しかし、1797年に全てが変わる。総裁政府は1月、ルーブルを海外の流派のための美術館、ヴェルサイユをフランス派の美術館とすることを決定したのだ。その結果、作品の一大整理が行われ、大居室には、プッサン、シャンペーニュ、ル・シュウールをはじめとするフランスの巨匠たちの作品が展示されることになった。彫像も公開された。他の機関、あるいは皇帝の邸宅のために徐々に作品を奪われていったヴェルサイユ美術館は、ついに1806年に閉館となった。そうしたヴェルサイユに関心を持ったのがナポレオンである。しかし、美術館の構想が再び戻ってくるのは、1833年以降だった。