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歴史重要な日

1875年 第三共和制の誕生

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1875年1月30日

4年間という不安定な準備期間の末、第3共和制が1875年、ヴェルサイユで最終的に採択され、 君主主義者たちの抗争に終止符を打った。

スダンの全面降伏を受けて1870年9月4日に第三共和制が宣言されるが、新体制はその当初から厳しい社会情勢に直面することとなる。フランスはドイツからの侵入を受け、社会的にも政治的にも混乱した時期に突入していったからである。

1870年9月以降、国防政府はドイツとの講和を模索したが、ビスマルクは選出された国民議会が形成した政府としか交渉しないという姿勢を崩さなかった。1871年2月の選挙では、保守主義の王党派(正統王朝派、オルレアン派、ナポレオン派)が勝利を収める結果となった。ボルドーに召集された新国民議会は、ティエールを「行政長官」に任命。当時は「大統領」という役職を使うことはまだ考えられなかったのである!ティエールはその後5月にフランクフルト講和条約に調印する。

ドイツ軍のパリ占領を引き金にして、1871年3月にパリ・コミューンが勃発。国民議会はヴェルサイユに移転することを決め、その後1879年までヴェルサイユに活動の拠点を置いた。議員たちは鏡の回廊で寝泊りし、貯蔵庫に収納されていた木工細工を燃やして暖を取り、オペラ劇場で討論を繰り広げた。ティエールは5月、政府に対する忠誠心を失わなかった「ヴェルサイエーズ」(ヴェルサイユ側の者)と言われる部隊を活用して、パリの暴動を鎮圧することに成功。これを機に共和制の確立を後押しする方向へと風向きが変わるのである。平和と社会の安定が、共和制成立に対して国民が抱いていた不安や恐怖を拭い去り、選挙もこれを確認する結果となった。1871年7月、正統王朝派のリーダーであるシャンボール伯爵は、国旗に関する議案をもって、王政復古を防ぐことになる。三色旗よりも白い旗を望んだシャンボール伯爵とそれに対する王党派内での対立を横目に、共和制は論争の中心から外れていったのである。

1875年1月に共和制が最終的に成立。28日の最初の試みに続いて翌29日、穏健派のカトリック教徒であるアンリ・ワロンが修正案を提出。この修正案は、再選可能の共和国大統領が国民議会に召集された上院と下院によって7年の任期で選出されるというものであった。30日、この修正案は353対352(!)で可決。第三共和制は、わずか一票差で可決されたのである!三つの他の修正案も可決され、1940年まで効力を持つことになる1875年、共和国憲法が完成。議院は1875年、エドモン・ド・ジョリーにより南翼の中央中庭に建築された。「国民議会」の間は第三共和制の下で「両院合同会議場」となったのである。1958年まで全ての大統領がここで選ばれることとなる。